横須賀リサーチパーク  Yokosuka Research Park
ゾーン2

横須賀の歴史

1854年、横須賀の久里浜にペリーが上陸し開国を迫りました。 ペリーが2台の電信機を幕府と天皇に献上しました。その意図は、下の絵にあるように、世界は着々と電信網を構築していることを示すねらいがあったと思われます。

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ペリーの久里浜上陸の図
横須賀自然・人文博物館所蔵 Heine画

1850年、電信網は世界で初めて海底ケーブルがドーバー海峡を渡りました。 そして1866年には、海底ケーブルが大西洋を横断し、ヨーロッパ、アジア、南北アメリカ大陸、アフリカ大陸、東南アジア、オーストラリアにニュージーランドまで電信がつながる時代になりました。日本だけが電信網につながっていませんでした。日本は、この技術力の差に、全力で追いつかねばなりませんでした。

当時の世界の電信網

陸上の通信ケーブル 海底ケーブル

1889年、日本はロシアの南下政策に対処するために、英国に軍艦を発注しました。この中に戦艦三笠がありました。 発注して間もない1895年、マルコーニは無線通信の実験に成功し、徐々に距離を伸ばしていきました。 海に浮かぶ船にとって、それまでは手旗信号やライトの点滅での通信しか無く、せいぜい通信距離は40kmほどでした。 無線通信が軍艦にとって不可欠の通信手段であることが世界中に理解されました。


日本に到着した戦艦三笠
公益財団法人 三笠保存会所蔵写真

このため日本は、マルコーニ社に無線通信機の購入を交渉しましたが、法外の価格を示されたため、やむなく独自に開発することを決意し、電気試験所の松代主任や東北大学の前身校である旧制第二高等学校の木村教授の努力もあり、1897年には品川沖で無線実験に成功しました。

明治30年 月島における無線電信実験装置
電気試験所
松代松之助電信主任
木村駿吉教授

他方、マルコーニは着々と通信距離を伸ばし、1899年にはドーバー海峡の横断に成功しました。 海軍でも無線機開発に着手し、通信距離100kmを目指して、1900年に千葉県の津田沼と横須賀の大津間の54kmで実験が行われました。

しかし、通信距離が伸び悩む上に、通信が不安定であったため、1902年に横須賀の田浦(船越)の海軍工廠に通信技術者を集めて無線機開発に取り組ませた。この結果、1903年(明治36年)に通信距離が1,000kmに達する三六式無線機が誕生しました。ただちに全艦船に搭載するべく、無線機工場を設置し、昼夜兼行で製造しました。


横須賀海軍工廠の建物(東芝ライテック㈱に現存)

横須賀を選んだ理由は、幕末から造船所や製鉄所が開設され、軍港と兵器工場が置かれるなど、当時のわが国の重工業の中心地であり、多様な知識・技術が得られると判断したことによります。

左:江戸幕府勘定奉行小栗上野介忠順像
右:フランス海軍大技師 横須賀製鉄所首長 F.L.ヴェルニー像
出典:横須賀市史 上巻
提供:横須賀市

こうして1905年5月27日に始まる日本海海戦では、仮装巡洋艦信濃丸がバルチック艦隊を発見し、三六式無線機にて「敵艦見ユ・・・」を打電しました。この通信は戦艦厳島を経由して旗艦三笠が受電し、海戦の先手を打つことに成功し、圧倒的勝利を得る原動力となりました。


日本海海戦 旗艦三笠艦橋の図

こうして横須賀は日本の重工業の中心となり、超大型船舶の造船に貢献しました。しかし、時代の趨勢により、横須賀の象徴であった汐入のガントリークレーンも1975年に撤去され、代わって同じ年、横須賀の武(現:光の丘)に日本電信電話公社の横須賀通信研究所(略称:通研)が完成し、横須賀は再び情報通信の研究拠点となりました。



日本電信電話株式会社 横須賀研究開発センター

さらに1997年には横須賀リサーチパークが誕生し、名実ともに日本の情報通信技術の最大の研究拠点となりました。それまでの携帯電話が各国で異なる通信方式を採用していたため、海外旅行では空港で携帯電話をレンタルしなければならなかった不便を改めるため、世界が協力して統一の方式を開発することとなり、日本も通信事業者も携帯電話メーカーも結集することとなったのです。2001年、めでたく第三世代携帯電話が誕生しました。こうして昔も今も、横須賀は無線通信技術の研究開発拠点として貢献しています。


株式会社NTTドコモ
ドコモR&Dセンタ
 
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